
黒人奴隷を用いた南部の綿花プランテーションは、奴隷制度の様々な限界により南部を綿花単一経済に縛りつけ、土地と奴隷に多額の資本を固定し、産業の多角化を阻んでいました。
1850年代に入ってからは逃亡増加・動揺の一層の広がりにより奴隷を監督する奴隷監督のコスト、奴隷自体の維持コスト、病気・ケガ・窃盗・破壊行為による追加コストなど様々な費用が以前に増してかかるようになり、奴隷農園経営を徐々に圧迫していきました。
これら 奴隷経済と綿花単一経済の行き詰まりに、南部の資本家商人や知識人らは、再び南部の工業化を意図して1852年から毎年のように南部商業会議(meeting of the Southern Commercial Convention )を設けてその工業化を話し合ったのですが、黒人奴隷による労働はその多くが質が低く、また黒人奴隷は機械の操作などの複雑な作業ができず単純作業にしか使えなかったことなどが原因で、結局アフリカからの奴隷貿易再開の話をせざるを得ない状況(1859年5月頃)になっていた程、南部州にとっての選択肢は狭められていたのでした。
内的矛盾の大きくなる南部奴隷州のプランターが自己の制度と権力とを維持するためには、上院における絶対多数、すなわち奴隷州の数を更に加えて自由州に対して数的優位を作り出すことが必要でした。
しかし1848年のゴールドラッシュで人口の急増したカリフォルニアの自由州編入が決定した結果、自由州16に対して奴隷州15で均衡が破れ始めたため、南部州プランターが奴隷州の拡張に焦り、1853年にはカリフォルニア南部を奴隷州に編入しようと企てたり、国内戦争の起こっていた中米のニカラグアへの遠征を試みたり、キューバの購買併合をも謀議するなど、1850年代前半の南部州は自由州との均衡を保とうとして相当必死になっていたようです。