交響曲第3番「スコットランド」 メンデルスゾーン

瀧 廉太郎の歌曲『荒城の月』との関係とは?

交響曲第3番「スコットランド」(the Scottish/Schottische)は、ドイツの作曲家フェリックス・メンデルスゾーンが完成させた最後の交響曲。

1829年に渡英したメンデルスゾーンは、スコットランドの首都エディンバラにあるホリールード宮殿(Palace of Holyrood)を訪れた(下写真/出典:Wikipedia)。

宮殿の隣には、かつて多くの戴冠式や結婚式が執り行われたホリールード寺院 (Holyrood Abbey)の廃墟が残されている(下写真/出典:Wikipedia)。

栄枯盛衰と世の無常を象徴するような廃墟を目の当たりにし、強いインスピレーションを受けたメンデルスゾーンは、すぐに16小節分の楽想を書き留めた。これが交響曲第3番「スコットランド」の序奏部分として反映されているという。

【試聴】指揮:カラヤン 交響曲第3番「スコットランド」

寺院の廃墟と日本の城跡 瀧廉太郎『荒城の月』

スコットランドで栄華を極めた寺院の廃墟に相当する建築物が日本にあるとすれば、それは各地に残された戦国時代の城郭であろう。

瀧 廉太郎の歌曲『荒城の月』(1901年作曲)でも、繁栄を極めた戦国大名たちの夢の跡、すなわち日本の城跡に漂う栄枯盛衰、諸行無常の響きが抒情感豊かに描写されている。

さて、瀧 廉太郎『荒城の月』を念頭に置いたうえで、もう一度メンデルスゾーン交響曲第3番「スコットランド」第1楽章冒頭を聴いていただきたい。

一度聴いていただければ言わずもがなであるが、両曲は冒頭からどこか似ている雰囲気を醸し出している。

作曲年代的には、『荒城の月』が交響曲「スコットランド」から影響を受けた可能性があることになるが、これはどのくらいありうる仮説なのであろうか?

東京音楽学校の研究科に進んだ瀧 廉太郎

瀧 廉太郎は15歳の時に、1890年5月に開校した日本最初の官立音楽学校「東京音楽学校(現:東京芸術大学音楽学部)」に入校している。

1898年の卒業後、研究科に進んだ瀧 廉太郎。明治政府は当時ドイツやオーストリアのクラシック音楽を積極的に取り入れており、研究員である瀧 廉太郎もワーグナーやメンデルスゾーンといったドイツの楽曲に触れる機会も多かったと思われる。

東京音楽学校の奏楽堂では、この頃実際にドイツ系の楽曲が日本で初演されており、メンデルスゾーンの交響曲「スコットランド」も1900年12月に東京音楽学校で初演されているようだ。

この曲の日本初演は、1900(明治33)年12月8日、アウグスト・ユンケル指揮の東京音楽学校管弦楽団によって実現した。ただしこのとき演奏されたのは第1楽章のみである。

引用:関西シティフィルハーモニー交響楽団 上柿 泰平氏による研究ページより

メンデルスゾーン交響曲「スコットランド」が日本で初演されたという1900年12月は、瀧 廉太郎が『荒城の月』を作曲する数か月前のこと。当時東京音楽学校の研究員であった瀧 廉太郎が同曲の初演を耳にした可能性はかなりのものがあるだろう。

メンデルスゾーンの音楽院に入学

なお、瀧 廉太郎は『荒城の月』作曲後、東京音楽学校の留学生としてドイツに渡り、メンデルスゾーンが1843年に設立し初代校長を務めたライプツィヒ音楽院(現:メンデルスゾーン音楽演劇大学)に入学している。

ドイツ在学中に肺結核に感染した瀧 廉太郎は直ちに帰国し、病気療養に専念したが、1903年6月29日に大分市の自宅で死去した。23歳没(満24歳)。

瀧 廉太郎『箱根八里』もメンデルスゾーン?

瀧 廉太郎『箱根八里』については、メンデルスゾーン交響曲第2番「讃歌」第1楽章主題との関連性が指摘されることがある。

詳細は、こちらのメンデルスゾーン 交響曲第2番「讃歌」のページを参照願いたい。

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