
逃亡奴隷取締法は1793年に既に施行されていましたが、奴隷制度を廃止していた北部自由州では厳密には適用されず、むしろ人身保証の法律が存在したために逃亡奴隷の自由が保護される傾向にありました。しかし1850年妥協により改悪された法律により、逃亡奴隷の陪審裁判が禁じられ、奴隷の逃亡を援助した者には厳罰が課せられ、南部プランテーションの奴隷主(プランター)の手先は政府役人とともに公然と自由州内に逃亡奴隷を求めて横行するという由々しき事態に陥っていました。彼らはしばしば自由黒人をも逃亡奴隷として逮捕するなど、この法律によって北部自由州がプランターの黒人狩りの場となる可能性さえ生じていたのです。
1830年代のアボリショニスト「ライマン・ビーチャー(Lyman
Beecher)」の娘であるハリエット・ビーチャー・ストウ夫人(Harriet Beecher Stowe
1811-96)は、1851年6月から翌52年8月にかけて、アボリショニストの機関紙(National Era)に「アンクル・トムの小屋」を連載しました。翌52年に単行本で出版され、その年のうちに30万部売られたというその作品は、北部自由州(奴隷制度反対派)の人々の人道主義的感情をかきたて、逃亡奴隷取締法および奴隷制度への一般的憎悪を深め広げる結果となりました。
★参考:フォスターとアンクル・トムの小屋の関係について→「フォスター特集 アンクル・トムの小屋」★
プランターを逃亡奴隷狩りにかりたてた奴隷価格の高騰、奴隷労働力の不足は、一方で国内の奴隷飼育や奴隷売買の醜行を盛んにするとともに、奴隷の密輸入をも活発化させ、1830年代に4万、40年代に5万とされた密輸奴隷は50年代には7万にも増えたとされ、さらにプランターらはアフリカとの奴隷貿易再開を要求するに至っていました。
それは、アメリカを、国際的にも覆うところのない野蛮国に引き落とすことを意味し、そしてプランターの手先による逃亡奴隷狩りは、北部の逃亡奴隷や自由黒人だけでなく白人市民の民主的自由をも脅かし、南部の奴隷制度の忌むべく恐るべき真相を北部人大衆の目の前に晒す結果となっていったのです。