河内おとこ節 歌詞と解説 中村美律子

河内生まれの風来坊は 生きのいいのが売りもんや

『河内おとこ節』は、平成元年にリリースされた女性演歌歌手・中村美律子(なかむら みつこ/1950-)最大のヒット曲。NHK紅白歌合戦の常連曲であり、関西では夏祭りの歌・盆踊りの曲としても親しまれている。

作詞・作曲は、第26回日本レコード大賞において大賞を受賞した 五木ひろし『長良川艶歌』を手掛けた石本美由起・岡千秋コンビ。岡千秋はアニメ「いなかっぺ大将」主題歌『大ちゃん数え歌』の歌詞も作詞している。

『河内おとこ節』2番の歌詞に登場する人名「阪田三吉(坂田三吉)」は、大阪府堺市出身の将棋棋士の名前。村田英雄最大のヒット曲『王将』のモデルにもなった伝説的棋士。

【YouTube】盆踊り 河内おとこ節

歌詞

河内生まれの 風来坊は
生きのいゝのが あゝ…売りもんや
サテモ皆様 おそまつながら
こゝが男の 舞台なら
太鼓叩いて 見栄を切る
喧嘩囃子の 河内ぶし

一に度胸や 二に人情や
後は腕づく あゝ…腕しだい
サテモ皆様 悪声ながら
坂田三吉 物語り
派手な掛声 頂いて
唸る男の 河内ぶし

馬鹿な息子と 叱ってくれる
俺(わい)の親父(おやじ)は あゝ…生駒山
サテモ皆様 おゝそれながら
肌は鉄火の 勇み肌
グイと冷酒 飲みほして
仁義がわりの 河内ぶし

中村美律子の生い立ち・デビューまで

『河内おとこ節』の大ヒットで人気を博した中村美律子は、メジャーデビューが36歳、同曲のヒットが40歳手前と、比較的遅咲きの実力派演歌歌手として知られている。

大阪の下町生まれの中村美津子は、小学生の時に母を過労で亡くし、苦しい家計から親元を離れ、地元の藤村商事の社長の所へ預けられていた。

社長は『河内音頭』師の若手育成に積極的で、町内のど自慢大会で優勝経験のある美津子を河内音頭の歌い手として育てようと、夏祭りの櫓の上に立たせて『河内音頭』を歌わせたり、プロのレッスンに通わせたりした。

美津子は二十歳の時に小さな芸能事務所に所属するものの、飼い殺し状態に耐え切れずやがて契約を解消。その後、フリーでドサ回りとオーディンションの日々が十数年間続いた。この間、出産と離婚も経験し、美律子はどん底の時代を懸命に生き抜いていた。

歌声を認められ再度芸能事務所へ

転機が訪れるのは昭和58年、美津子が33歳の頃、関西浪曲界の第一人者・春野 百合子(2代目)に弟子入りを認められてからのこと。数年後のある日、作曲家・富田梓仁の下へ美律子の歌声が届けられた。富田は「演歌なのに、泥臭くない。声そのものに凄みがあり、甘さと哀愁を持ち合わせている」と絶賛。美津子の新たな事務所入りがとんとん拍子に進められていった。

36歳で再び演歌の世界で芸能活動を始めた美津子だったが、最初の数年は鳴かず飛ばずで大変苦しんだ。事務所の資金繰りも苦しくなる中、彼女を救ったのが、平成元年6月(39歳頃)にリリースされた『河内おとこ節』だった。

窮地を救った『河内おとこ節』

『河内おとこ節』はじわじわと評判を呼び、大阪だけで半年で8万枚も売り上げるヒット曲となった。美津子の父が亡くなったのはこの数年後。兄弟の中でも一番に彼女を可愛がり、芸能活動も応援してくれていた父が健在なうちに、美津子は感謝の言葉を届けることができた。

『河内おとこ節』のヒットで関西における美律子の知名度は急上昇。その後のシングルも立て続けにヒットを記録し、コンサートを開けば連日満員。ついには平成4年の年末、1992年末の第43回「NHK紅白歌合戦」に初出場を果たし、『河内おとこ節』は全国的な大ヒット曲となった。

その後、中村美律子は「NHK紅白歌合戦」に2010年までの18年間で計8回『河内おとこ節』を熱唱。他の曲も含めれば、合計15回紅白への出場を果たしている。

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