青い眼の人形 歌詞と解説

日本の童謡/アメリカ生まれのキューピー人形

「青い眼をしたお人形は アメリカ生まれのセルロイド」の歌い出しで親しまれる日本の童謡『青い眼の人形』。1921年(大正10年)発表。

岩波書店『唱歌・童謡ものがたり』(読売新聞文化部)によれば、『青い眼の人形』の作詞者の野口雨情は、当時の日本で人気があったセルロイド製のキューピー人形を見て歌詞を着想したという。

作曲は、『赤い靴』、『七つの子』などで知られる本居長世(もとおり ながよ/1885-1945)。娘の三人姉妹と全国公演し、『青い眼の人形』は爆発的な人気を獲得した。

青い目のキューピー人形

写真:日本製 昔ながらの キューピー人形 全長20cm

【YouTube】童謡 『青い眼の人形』

歌詞

青い眼をした お人形(にんぎょ)は
アメリカ生まれの セルロイド

日本の港へ ついたとき
一杯(いっぱい)涙を うかべてた
「わたしは言葉が わからない
迷子(まいご)になったら なんとしょう」

やさしい日本の 嬢(じょう)ちゃんよ
仲よく遊んで やっとくれ
仲よく遊んで やっとくれ

アメリカ生まれのキューピー人形

キューピー人形(Kewpie doll)は、アメリカのローズ・オニール(Rose O'Neill)がキューピッドをモチーフとして考案したイラスト・キャラクターを元にして、1913年にアメリカで特許登録され誕生した人形。

「アメリカ生れのセルロイド」キューピー人形は日本でも人気となり、セルロイド(celluloid)の原料である樟脳の資源が豊富だったこともあり、生産自体も日本で行われていた。

ちなみに、セルロイドは劣化しやすく燃えやすいという欠点があったことから、戦後はキューピー人形の材質としてソフトビニール製のものが主流となっていった。

現在では、セルロイドが使われているのは卓球のピンポン玉やギターピックなどの限られた製品となっている。

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日米親善の架け橋となった「友情の人形」

童謡『青い眼の人形』の発表から6年後の1927年、当時の日本は中国での権益を巡りアメリカとの政治的緊張が高まっていた。

日米関係の改善を目的として、親日家のアメリカ人宣教師シドニー・ギューリック博士(Sidney Lewis Gulick/1860–1945)の提唱により、親善活動として日本の子供たちにアメリカから多数の人形が贈られた。

渋沢栄一を仲介役として、アメリカから日本全国の幼稚園・小学校に合計12,739体の「青い目の人形」が届けられ、日本からは返礼として、同年「答礼人形」と呼ばれる市松人形58体がアメリカへ贈られた。

アメリカから届けられた「青い目の人形」は、ギューリック博士の呼びかけで全米各地から集められたもので、「友情の人形」と記されたギューリック博士の手紙とともに、デザインや衣装も一体一体異なる様々な人形で、贈り手のぬくもりが伝わるフレンドリーなものであった。

日米親善の架け橋となった「青い目の人形」だったが、戦争と言う時代の大きな波の中で、その多くが焼却処分されてしまった。それでも、人形の廃棄を忍びなく思った有志が人形を戦後まで隠し通し、2013年現在、330体の「青い目の人形」が日本各地で大切に保存されている。