ポルトガルのブラジル遷都 ナポレオン戦争

世界史・国際関係トピックス

ナポレオンは1806年11月21日、イギリスを経済的孤立に追い込むための経済封鎖「大陸封鎖令 Continental Blockade」を発令。

大陸封鎖令を拒否したポルトガル

当時スウェーデンとポルトガルはフランスに対して中立を維持していたためナポレオンの標的となった。

特にポルトガルはイギリスの重要な貿易相手国であり、経済封鎖の穴となっていたポルトガルは最大のターゲットの一つであった。

まずナポレオンはロシア帝国をけしかけ、ロシアのフィンランド獲得を黙認する条件でスウェーデンに対して宣戦布告させると、1807年10月には衛星国スペインとの間でポルトガルの占領と分割を合意(フォンテーヌブロー条約)。翌月、フランスのジュノー将軍が大軍を率いてポルトガルのリスボンへ進軍した。

ポルトガル王室は植民地ブラジルへ遷都

ポルトガルの首都リスボンがフランス軍の手に落ちる直前の1807年11月末、ポルトガル女王マリア1世とジョアン王子(後のジョアン6世)、王族や貴族・官僚、大商人など1万5千人以上の人民・軍隊が、イギリス海軍の護衛の下、ポルトガルの植民地ブラジルのリオデジャネイロに逃亡。

1808年からは、リオデジャネイロがポルトガル(およびブラジル)の首都となり、リオの急速な発展の礎を築いた。1815年にはブラジルがポルトガルと同格の王国に昇格し、「ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国」(1815-1825)として、同格の同君連合が成立した。

ブラジル独立までの歴史

ポルトガルのブラジル遷都 ナポレオン戦争 <このページ>
ナポレオン(フランス)に追い出されてポルトガルは植民地ブラジルへ遷都
イギリスがポルトガルを占領
ブラジルへ遷都後、本国ポルトガルがイギリスに占領されてしまう
ペドロ1世(ブラジル)とポルトガル
イギリスを追い出したけど、ブラジルからペドロ王子が帰ってこない
ブラジル独立 イピランガの叫び
ポルトガル議会『独立は許さん』 ペドロ王子『独立か、死か!』
イピランガ公園の独立記念像
「イピランガ」とは「赤い川」を意味している

ブラジル関連ページ

ブラジル国歌
イピランガの川岸から聞こえる 鳴り響く勇者達の雄叫び