
「森のくまさん」の解釈についてのwebページを検索してみると、本当に色々な人々の色々な解釈が出てきます。中には有名な知識人の方もこの議論に参戦しているようで、東京大学大学院社会学博士の宮台真司氏によるコメントの他、いくつか興味深い解釈が見つかりましたので早速ご紹介したいと思います。
まず、東京大学大学院社会学博士の宮台真司氏は公式ブログの2006年6月24日のエントリーにて次のようにコメントしています。
■おかしい。熊の行動もお嬢さんの行動も解離している。自分は「怖い熊」だと言うが、親切を施すのは「怖くない熊」だから。「怖い熊」だと納得して逃げたお嬢さんが、直後に一緒にラララ…と唄うのは「怖くない熊」だと思うから。どうにもつじつまが合わない。
■最後に馬鹿説。熊さんもお嬢さんもイイカゲンで支離滅裂なのだとする説。ネット上では筆先三寸さん(http://www1.odn.ne.jp/mushimaru/index.html)がこの説を挙げた上で否定し、鉄砲説の類似説(熊さんではなく別のものが危険だから逃げなさい)を語る。
■私は昔から馬鹿説──解離説と呼ぶべきか──だと感じる。長じてギリシア神話や記紀神話などを知るにつけて、益々そう思った。古い神話では人も神も行動が支離滅裂(であるが故に神は非超越的)。「〈世界〉は確かにそうなっている」との納得を与えるためだ。
確かに日本語版「森のくまさん」の歌詞は、その説明不足が原因でストーリーの前後で矛盾しているように解釈できるために、そのまま歌おうとするとちょっと違和感が大きくて、お嬢さんとクマは大丈夫なのかと心配になってしまいそうです。この「どっちもバカ説」は誰もが一度は脳裏をよぎるであろう多数派説であるといえそうです。
ちなみに、この宮台氏のブログで言及されている筆先三寸さんのページでは、解釈の余地の大きい「森のくまさん」の歌詞を様々な角度から考察し、結論として再現小説の形で独自のストーリーを展開されています。筆先三寸さん説の一部を以下の通り抜粋します。
(ア)両者はともに人間である。
(イ)両者は知り合いである。
(ウ)「お嬢さん」の父親は「くまさん」に対して高い地位にある。
(エ)「くまさん」は高齢ではない。少なくとも青年に匹敵する体力を持つ。(a)「お嬢さん」は何者かによって森へ連れ込まれた。
(b)「お嬢さん」はその何者かの暴力によってイヤリングを落とした。
(c)「くまさん」は警察官である。
(d)「お嬢さん」はイヤリングを拾ってもらったお礼に「くまさん」に対して犯罪への関与を自白している。
クマさんは人間の警察官だった・・・という衝撃の説は、日本の「森のくまさん」学会に大きな衝撃を与えました。興味深い解釈の真相については、是非筆先三寸さんのページをご覧頂きたいと思います。同じ歌詞からよくもここまで解釈を広げることができるものだと思わず関心させられます。
このように様々な解釈が成り立ち、ネタとして格好の材料となっている日本語版「森のくまさん」の歌詞ですが、私が一番気に入った解釈をご紹介して、ひとまずキリにしたいと思います。実は「森のくまさん」には、愛するがゆえに傷付け合ってしまう、どこかで聞いたことのあるような恋愛ストーリが隠されていたのでした。
「自分は自分が欲する相手の女性に愛されるに値しない、むしろ傷つけてしまう存在である、それゆえに自分は自分が欲する相手の女性に近づくことができない」。このように、相手の女性を欲しながら自分はそれに値しないという屈折した自意識のあり方が「森の熊さん」の歌詞には託されているのである。
これだけ様々な解釈と疑問の余地を残した歌詞はそうあるものではないと思いますが、この歌詞を世に送り出した作詞者である馬場祥弘とは一体どんな人物なのでしょうか?次のページへ続きます。