流血のカンザス 意味 アメリカの歴史

アメリカ南北戦争の前兆となった北部州と南部州の代理戦争

「流血のカンザス」または「血を流すカンザス」とは、アメリカ・カンザス準州を中心に1854年から1861年の間に発生した政治的・暴力的衝突。

英語では「Bloody Kansas(ブラッディ・カンザス)」、または「Bleeding Kansas(ブリーディング・カンザス)と呼ばれる。

アメリカ南北戦争(1861-1865)の前兆となった北部州と南部州の代理戦争であり、南部州が合衆国から脱退する大きな契機の一つとなった。

カンザスの看板

ごんべさんの赤ちゃん』原曲の『ジョン・ブラウンの亡骸』で歌われた英雄的活動家ジョン・ブラウンも、同時期にカンザスで大きな行動を開始している。

一体なぜカンザスでこのような衝突が発生したのだろうか?その原因や経緯・歴史的背景などについて簡単にまとめてみた。

北部州と南部州の対立

19世紀アメリカは次々と領土を広げ、数々の新たな州が誕生していたが、その州を奴隷制度が認められない「自由州」にするか、奴隷制度を認める「奴隷州」にするかで常に争いとなっていた。

南部州では、綿花プランテーション(大規模農園)経営のために奴隷制度が必要だったため、奴隷制度を認めない工業中心の北部自由州と常に対立していた。

境界線を定めたミズーリ協定

どこまでが自由州で、どこまでが奴隷制度を認める奴隷州なのかについては、1820年に締結された「ミズーリ協定」がその境界線を定めていた。

ミズーリ協定によれば、ミズーリ州の南の境界線(北緯36度30分)より北では、奴隷制度は一切認められないと規定されていた。

カンザス・ネブラスカ法 成立

1853年、大陸横断鉄道を敷くためにミズーリ州の西方カンザスを准州にする構想が、イリノイ州選出上院議員スティーブン・ダグラス(Stephen A. Douglas 1813-61)から提案された。

このカンザス准州は、北緯36度30分より北に位置しており、ミズーリ協定によれば当然自由州に編入されてしまうので、南部州の上院議員は当然激しく反対した。

ダグラス議員は何としても大陸横断鉄道を実現したかったため、南部派の反対に対して、次のような妥協案を示し、南部を懐柔した。

カンザス州が自由州・奴隷州のどちらになるかは、住民の決定に委ねる

これにはたちまち各方面から多くの議論が巻き起こった。そこでダグラスは、ネブラスカも追加で准州とする案を出し、仮にカンザスが奴隷州になっても、ネブラスカを自由州にすることで、上院議員の数的バランスを維持できると考えた。

破られたミズーリ協定

ダグラスによるこれらの法案は「カンザス・ネブラスカ法」と呼ばれ、1854年5月に成立した。

しかしこれは、結局1820年のミズーリ協定を事実上あっさり破棄してしまうことを意味していた。

そしてその結果、南部の奴隷州拡張を北部の方向へ推し進めることを許し、実質的に南北の対立をより一層激化させたのだった。

カンザスへの移住競争

「カンザス・ネブラスカ法」の成立を受けて、カンザスが自由州になって南部の立場がより悪化するのを極度に恐れた南部奴隷州の農園主らは、直ちに武装団・暴力団を結成し、こぞってカンザスに移住を開始した。

これに対して、北部州(自由州)側も移住援助協会を設立してカンザスへの移住を奨励。最初のカンザス準州知事に奴隷制反対派を就任させることに成功し、南部奴隷州らの企みはある程度抑えられた。

巻き返す南部州の横暴

北部州側の知事が就任したことで、それを覆そうと奴隷州側の人間がカンザスに殺到しはじめた。

1854年11月の国会代表選挙では、ミズーリ州のプランターやその手先が多数押しかけて投票を行ったことにより奴隷制支持者が当選。

1855年3月の準州議会選挙では、更に多数のミズーリ州の武装団・暴力団が乱入し、選挙委員を脅して不正投票を行った。

この結果、奴隷制度支持者は準州議会で多数を占めただけでなく、少数派の奴隷制度反対派議員を追い出して奴隷反対派のリーダー知事を罷免。

さらに奴隷州であったミズーリ州の法律をそのままカンサス準州の法律として適用し、奴隷制度反対者を公務から遮断してしまった。

立ち上がるジョン・ブラウン

このような南部派の暴力的なやり方は、北部自由州のアボリショニスト(奴隷反対論者)達を激昴させた。

これらの動きを見て、熱烈なアボリショニストでありオハイオの地下鉄道組織で活動していたジョン・ブラウン(John Brown/1800-1859)は、5人の息子達とともに武器を携えて、カンサスのオサワトミーへ移住して行った。

カンサス州オサワトミー

写真:現在のカンサス州オサワトミー(出典: Life Care Center of Osawatomie)

カンザスにおける両派の抗争は、しだいに暴動化の方向へ展開していった。奴隷派の武装団・暴力団は、1856年5月21日、自由派の町ローレンスを襲って占領し、移住援助協会のホテルや新聞社を次々と破壊していった。

南部派の破壊行為に憤激したジョン・ブラウンは、3日後に一隊を率いてポタワトミーの奴隷主派の暴力団を襲い、それに対して南部派は自由派の町オサワトミーを襲って焼き払った。

自由派も更に奴隷派の町を攻撃していくなど、カンザスは暴力の支配下に置かれていた。後に「流血のカンサス」、「血を流すカンザス」と呼ばれる事件が、まさにこの時起こっていたのだった。

その後は自由州が有利に

カンザスへの移住競争は、南部側の奴隷主の手先らによる不自然な移住に対して、北部側の開拓農民らの極めて自然な開拓移民の流入により、否応なしに自由州の方向へ発展していった。

1858年には自由州側は準州議会を制し、奴隷州側の憲法の採択も拒否。着々と自由州側への編入の準備を進めていった。

次第に不利な状況になっていく南部奴隷派は、1858年5月にも自由派を殺傷する事件を起こすなど、なお暴力に訴えることをやめなかった。

しかし、もはや自由派有利の体制を覆すことはできない状況であり、南部派の武装団によるカンザスの暴力的支配が失敗したことは明らかになっていた。

リンカーン大統領誕生

1860年11月の大統領選挙では、奴隷制の拡大に反対していた共和党のエイブラハム・リンカーンが当選。

決定的に不利な状況となった南部州は、翌1861年2月までに7州が合衆国からの脱退を宣言し、アメリカ連合国を結成した。

アメリカ南北戦争 模擬戦での南軍

写真:アメリカ南北戦争 模擬戦での南軍(Kevin M. McCarthy©123RF)

1861年3月4日にリンカーンが大統領に就任すると、4月12日に南軍が合衆国のサムター要塞を砲撃。いわゆるアメリカ南北戦争が勃発した。

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