
このような南部派の暴力的なやり方は北部のアボリショニスト(奴隷反対論者)達を激昴させました。移住援助協会の活動はより強化・活発化し、更なる宣布活動や基金収集に奔走していきました。
1855年10月には、レコンプトンを首都とする南部奴隷州の準州政府に対して、トペカに自由州政府の首都が置かれ、ここに同一準州において異なる二つの政府が誕生していました。
これらの動きを見て、熱烈なアボリショニストでありオハイオの地下鉄道組織で活動していたジョン・ブラウン(John Brown 1800-1859)は、5人の息子達とともに武器を携えてカンサスのオサワトミーへ移住して行くのでした。
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これらレコンプトンの奴隷主派政府とトペカの自由派政府という2つの準州政府を持ったカンサスにおける両派の抗争は、しだいに暴動化の方向へ展開していきます。奴隷派の武装団・暴力団は1856年5月21日、自由派の町であったローレンスを襲って占領し、移住援助協会のホテルや新聞社を次々と破壊していきました。
この南部派の破壊行為に憤激したジョン・ブラウンは、3日後に一隊を率いてポタワトミーの奴隷主派の暴力団を襲い、それに対して南部派は自由派の町オサワトミーを襲って焼き払い、自由派も更に奴隷派の町を攻撃していくなど、カンサスは暴力の支配下に置かれていました。
ジョンブラウンは1800年5月9日コネチカット州トリントン(Torrington, Connecticut)生まれ。1820年にDianthe Luskと結婚し、7人の子供をもうける(彼女は出産時に亡くなる)。1830年にMary Ann Dayと再婚し、13人の子供をもうけるが成人に達したのはその内6人。ハーパーズ・フェリー襲撃時にも子供たちは多数参加し、命を落とした。