リパブリック讃歌の謎

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カンサスへの移住競争~北部の移住援助協会~

 「カンサス州が自由州・奴隷州のどちらになるかは住民の決定に委ねる」というカンサス・ネブラスカ法の成立を受けて、カンサスが自由州になって南部の立場がより悪化するのを極度に恐れた南部奴隷州のプランターらは、直ちに武装団・暴力団を結成し、こぞってカンサスに移住を開始しました。

 これに対して北部自由州側では、1854年4月にエリー・サイヤー(Eli Thayer)らによってマサチューセッツに移住援助協会が設けられ、ニューイングランドのアボリショニストや労働者達をカンサスへ移住させるための奨励と経済的援助を始めました。当時西部に開拓民として移住するにはある程度まとまったお金が必要で、不況に喘いでいた東部住民をカンサスへ移住させるには経済的援助が必要不可欠だったのです。

 カンサス移住のための経済的援助を施す移住援助協会は、その後ニューヨーク、ワシントン、オハイオ等続々と組織されていき、ニューイングランド移住援助協会だけでも1854~55年の間に1240人の住民をカンサスに送り、街や工場を建設するための援助を行っていきました。こうした地道な努力の結果、最初のカンサス準州知事は、奴隷制反対派のアンドルー・H・リーダーとなり、南部奴隷州らの企みはある程度抑えられることになりました。

南部奴隷州の横暴に激昂する北部州の人々

 最初の知事は自由州側の人間が就任したものの、その後それを覆す勢いで奴隷州側の人間派がカンサスに殺到しはじめ、奴隷賛成派の住民等は1854年6月には早くもリーヴンウォース、アチソン等の町を次々と建設してその勢力を拡大していきました。

 1854年11月の国会代表選挙では、ミズーリ州のプランターやその手先が多数押しかけて投票を行ったことにより奴隷制支持者が当選し、1855年3月の準州議会選挙では更に多数のミズーリ州の武装団・暴力団が乱入し、選挙委員を脅して不正投票を行いました。この結果、奴隷制度支持者は準州議会で多数を占めただけでなく、少数派の奴隷制度反対派議員を追い出して奴隷反対派のリーダー知事を罷免し、奴隷州であったミズーリ州の法律をそのままカンサス準州の法律として適用し、奴隷制度反対者を公務から遮断してしまいました。

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