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ハウ夫人の回想

 なんとか町にたどり着いた彼女でしたが、初めて目の当たりにした北軍兵士の演習や南軍による急襲、そしてクラーク牧師からの馬車の中での提案など、彼女の頭の中は色々な出来事でいっぱいになっていました。

 宿泊先のホテルについた後は、馬車の中の長旅と精神的な疲労からか、いやいつも通りのことだったようですが、彼女はぐっすりと深い眠りにつくことができたようです。しかし、熟睡して朝を迎えていた毎日とはその日は少し違っていて、彼女はまだ明け方の薄暗い明かりの中でふと目を覚ましたのです。

 すぐには眠りにつけそうになかったので、彼女はそのまま横になって世が明けるまで待とうかとしていたその時、いくつもの長い詩の糸が彼女の頭の中でひとつにまとまっていき、待ち望んでいたすべての歌詞が見事なまでに編み上げられ、形作られていったのです。

"I must get up and write these verses down, lest I fall asleep again and forget them."

「また眠りについて忘れてしまう前にかきとめなければ!」

 彼女はベッドから飛び起き、薄暗い夜明けの明かりの中で何か書くものを手探りで探し出し、ほとんど紙も見ないで思いついたままを走り書きで夢中で書き留めていきました。

 彼女が夜に詩を思いついて暗闇の中で紙も見ずに走り書きをすることはこれ以前にもよくあったようです。普段彼女のそばで寝ていた赤ちゃんを起こさないように明かりを使わずにアイディアを書き留める必要があったというのがその理由のようです。

 こんな芸当の助けもあって、彼女の脳裏に突然ひらめいた「リパブリック讃歌」の新たな歌詞は、その姿を記憶の彼方に消してしまうことなく、見事に紙に書き留められて無事世に生み出されることになったのでした。すべての歌詞を書きとめ終えると、彼女は満足してこうつぶやき、またベッドに入って深い眠りについたようです。

"I like this better than most things that I have written."

「今まで思いついた中で最高の歌詞が出来たわ」

 この歌詞は「リパブリック讃歌(Battle Hymn of the Republic)」と命名され、アトランティック・マンスリー(Atlantic Monthly)誌1862年2月号上で掲載された後、北軍の軍楽隊によって正式に採用され演奏されることによって、南北戦争における北軍の行軍歌として後世までその名を残すことになっていきました。

 ちなみに、この彼女の功績の大きさに比べ、彼女がアトランティック・マンスリーの編集者から受け取った原稿料はたったの4~5ドルであったそうです。

 ですが、そもそも彼女は原稿料のためにこの詩を生み出したのではありませんでした。「ジョン・ブラウンの身体(亡骸)」のメロディーを北軍の行軍歌に相応しい姿に生まれ変わらせることができたという事実こそが、そしてその歌詞が実際に北軍兵士達の士気を高め彼等を精神的に支えられたことこそが、彼女にとっての大きな報酬であったことは言うまでもありません(右画像の出典:WIKIMEDIA COMMONS)。

「ジョン・ブラウンの亡骸」という歌は一体なんだったのか?

 それにしても、ハウ夫妻が北軍の演習に行ったときに既に志願兵らの間で絶大な人気を博していた「ジョン・ブラウンの身体(亡骸)」という歌は、一体どのようにして生まれ、ひろまっていったのでしょうか?これについてはいくつかのエピソードが残されているようですが、どれも逸話の域を出ず、後付で作った話じゃかないかと疑わしいものが多くて、これだ!という決定打を欠くものばかりのようです。

 次のページでは、そんな疑わしいエピソードの中でも、特に信憑性の高そうな、史実に合致している部分を多く含んだエピソードやメロディーをいくつかご紹介したいと思います。

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