
前のページでも触れましたが、あまり経済的に余裕がなかったジョン・ブラウンの奴隷解放に向けた活動を陰ながら支えていたのは、同志のアボリショニスト達からのバックアップ、特に「シークレット・シックス」と呼ばれる6人の主要人物による寛大な援助でした。
彼等6人いずれもジョン・ブラウンと志を同じくする熱烈なアボリショニスト達で、カンサス移住競争の時も奴隷州の拡張を防ぐべく懸命に奴隷解放に向けて活動していました。
「シークレット・シックス」の6人のメンバーのうち、「リパブリック讃歌」の誕生にとって歴史的に見て鍵となる人物は「サミュエル・G・ハウ」という人物です。彼はジョン・ブラウンを支え、「リパブリック讃歌」誕生のきっかけをつくったという事実以外にも歴史的に重要な役割を果たしており、その功績はもっと広く認知されるべきであると思います。次のページでは、「サミュエル・G・ハウ」氏について他の歴史的出来事とも絡めてもう少し記述してきます。
ハーバード大学で医学の学位を取得しており、「パーキンズ盲学校(the
Perkins School for the Blind)」 のために父親の自宅を提供し、同校の初代校長も務めています。ジョン・ブラウンによるハーパーズ・フェリーの襲撃後はジョン・ブラウンの擁護に尽力していました。ハーパーズ・フェリーの襲撃に武器や金銭を工面していたこともあり、逮捕を恐れて一時期カナダへ逃亡しています。ジョン・ブラウンの処刑後はアメリカに戻り、ハーパーズ・フェリーの襲撃を調査していた上院委員会の証言にも立ちました。
南北戦争の間は連邦衛生委員会(the U.S. Sanitary Commission)で戦傷者の治療活動・衛生環境の改善等に尽力しており、その功績が認められてある演習場に招待されたことが「リパブリック讃歌」が世に生み出される大きなきっかけとなっていきます。その他、彼は黒人奴隷を自由にするためリンカーン大統領に政治的圧力をかける委員会の設立を援助したり、奴隷解放宣言後は解放された黒人のための組織で活動していました。
彼もジョン・ブラウンと同じく熱心なアボリショニスト。ジョン・ブラウン等によるハーパーズ・フェリーの襲撃を公に支持していましたが、襲撃を調査するための調査委員会からは一度も証言を要求されませんでした。南北戦争真っ只中の1863年には北軍最初の南カロライナ黒人部隊の大佐を務めています。
彼はユニタリアン派(プロテスタントの一派)の牧師で、ジョン・ブラウンに負けず劣らず怖いもの知らずのアボリショニスト(奴隷制度反対論者)でした。前編の「研究ファイルNo.006 歴史編」でも少し触れているように、当時は南部から逃亡した奴隷を追って奴隷狩りの手先が奴隷を禁止している北部の州にまでやってきていたのですが、彼はこの奴隷狩りの手先を探し出して「南部の町に帰らなければ殺してしまうぞ!」と脅して追い返していました。ジョン・ブラウンのハーパーズ・フェリーの襲撃時にはセオドア・パーカーはイタリアのフローレンスに居て、その後はジョン・ブラウンの行動を擁護する手紙などでジョン・ブラウンをバックアップする活動をしていたようです。
彼はマサチューセッツ州コンコードの学校で教師をしており、マサチューセッツ州のカンサス移住援助協会の事務局長も勤めていた時期もあったようです。ジョン・ブラウンが起こしたハーパーズ・フェリーの襲撃事件は彼にとっては少しショックだったようで、ジョン・ブラウンとの間で交わした手紙をすべて燃やしてしまったりしたそうです。事件の兆調査委員会での証言は頑なに拒否していました。
彼は博愛主義者として知られた政治家でした。1840年代のニューヨークでは土地所有者しか選挙権がなかったのですが、当時彼は広大な土地を所有しており、南部から逃げてきたアフリカ系アメリカ人に土地を与え、その見返りとして彼に投票させることができたというラッキーな境遇にありました。彼は、ジョン・ブラウンが起こしたハーパーズ・フェリーの襲撃事件の知らせを聞いたとたんショックで倒れて病院に運ばれたとの逸話もあるようです。
マサチューセッツ州のカンサス移住援助協会の理事長を務めていた人物で、ジョン・ブラウンに対して金銭的にサポートをしていたようです。彼はハーパーズ・フェリーの襲撃事件の調査委員会でジョン・ブラウンを擁護するために証言をしています。1863年1月1日の奴隷解放宣言の時に彼が開いたパーティーで、用意したジョン・ブラウンの胸像の除幕を行ったそうです。