サミュエル・G・ハウ
パーキンス盲学校 初代校長
リパブリック讃歌の謎 The Battle Hymn of the Republic
ジョン・ブラウンを支えていた「シークレット・シックス」のメンバーの一人であるサミュエル・G・ハウ(Samuel Gridley Howe/(1801-1876)は、1801年11月10日にボストンで生まれました。
1821年にブラウン大学を卒業、さらに1824年にはハーバード医学学校(the Harvard Medical School)を卒業し、医師の資格を得ていました。 ハーバード大卒業後はギリシャの独立戦争で6年もの間兵士として戦っていたという勇ましい経歴もあり、その後は1831年に帰米しています。
ギリシャからの帰米後、ブラウン大学の旧友であったジョン・フィッシャー(Dr. John Dix Fisher)に、1829年に設立されたアメリカ国内初の盲人教育学校「パーキンス盲学校」の運営協力を依頼され、初代校長として1832年から父親の自宅を使って数名の身障者の教育を始めます。1838年10月に入学してきた目と耳が不自由なブリッジマン (Bridgman, Laura Dewey 1829-1889)の教育に成功し、アメリカにおける特殊教育の新たな方法論を確立していきました。
ちなみに、ハウが父親の自宅を使っていた頃は「ニューイングランド盲人収容所(The New England Asylum for the Blind)」と呼ばれていましたが、裕福なボストン人であり設立者の一人でもあったトーマス・H・パーキンス(Thomas H. Perkins)から学校としてパーキンスの家を提供されたことがきっかけで、1839年にパーキンスの家から南ボストンのハシントンハウスホテル(the Mt. Washington House Hotel)に移った後も彼の名前を残し、「パーキンス盲学校(the Perkins Institution for the Blind.)と呼ばれるようになっています。
1841年 ジュリア・ウォードとの出会い
ブリッジマン (Bridgman, Laura Dewey 1829-1889)の教育に成功していた「パーキンス盲学校」の名はアメリカ中に広まり、その功績は多くの人々に知られていきました。そんな評判を聞きつけてか、1841年にある二十歳過ぎの美しい女性が「パーキンス盲学校」を訪ねてきます。
彼女の名はジュリア・ウォード(Julia Ward 1819-1910)といい、ハウとは18歳も年の差があったのですが、お互いに何か惹かれるものを感じたのでしょう。その日から二人のお付き合いが始まり、2年後の1843年にはめでたく結婚することになりました。
このハウ夫人こそ、後に「リパブリック讃歌」誕生にとって非常に重要な役割を果たす人物なのであり、次のページ以降で彼女の生い立ち等と合わせて「リパブリック讃歌」誕生エピソードについて詳しく述べていきます。
参考:「パーキンス盲学校」へのアニー・サリバンの入学
サミュエル・ハウが1876年に亡くなって4年後の1880年には、アニー・サリバン(Annie Sullivan/Anne Mansfield Sullivan Macy 1866-1936)という14歳の孤児の女の子が「パーキンス盲学校」へ入学してきます。
彼女は9歳の時に両親に棄てられ、パーキンス盲学校に入るまで州立の救貧院に収容されていました。サリバンは幼い頃の病気が原因で視力がほとんどなく、読み書きもできていませんでしたが、パーキンス盲学校での治療である程度視力を回復し、読み書きも覚えていきました。
このサリバンは後にあのヘレン・ケラーの教師となり、「19世紀の奇跡」と絶賛される感動的なストーリーを展開していくことになるのですが、その辺のお話に興味のある方は、こちらのサイトなどで更に調べてみると良いと思います。
パーキンス盲学校 http://www.perkins.org/
社会福祉法人 日本ヘレンケラー財団 http://www.helenkeller.or.jp/
【次のページ】 ジュリア・ウォードとの出会い
リパブリック讃歌 誕生編 目次
- はじめに
- 父から受け継いだ血潮
- シークレット・シックス
- 特殊教育の道を開いたハウ氏
- ジュリア・ウォードとの出会い
- ハウ夫妻と北軍
- 真夜中の突然のひらめき
- もう一人のジョン・ブラウン
- エルズワースの亡骸
- グローリー・ハレルヤ
- 本当の作曲者は誰?
- メロディーの源流?
- ジョン・ブラウンの赤ちゃん
- 権兵衛さんの赤ちゃん
- ジョン・ブラウンの魂