ピアノ協奏曲第2番 ラフマニノフ

ラフマニノフ (Sergei Rachmaninoff/1873-1943)

『ピアノ協奏曲第2番』は、 ロシアの作曲家・ピアニストのセルゲイ・ラフマニノフによる1901年作曲のピアノ協奏曲。

ラフマニノフ(Sergey Vasilievich Rakhmaninov/1873-1943)は、1873年、ペテルブルグ南方に位置するセミョノフに生まれた。

12歳の時、ピアニストの従兄アレクサンドル・ジロティに見いだされ、モスクワ音楽院のニコライ・ズヴェーレフの家に寄宿しながらピアノを学びはじめる。18歳の時に同音楽院ピアノ科を首席で卒業し、ピアノ協奏曲第1番を完成させている。

精神科医ニコライ・ダールとの出会い

彼の最初の交響曲第1番は24歳の時(1897年)に初演されたが、批評家から酷評を受け、ノイローゼ状態に陥り、作曲活動のペースは著しくダウンしてしまう。

しかし、精神科医ニコライ・ダールによる心理療法・暗示療法で精神状態は徐々に回復していき、自身を取り戻した彼が28歳(1901年)の時に完成させたのがピアノ協奏曲第2番である。

ラフマニノフはこの曲をダールに捧げた。ピアノ協奏曲第2番は初演から成功をおさめ、彼の作曲家としての地位は不動のものとなった。

【試聴】ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番 第1楽章

冒頭のピアノ独奏による和音連打のクレシェンドが印象深い。これはロシア正教の鐘の音を模したものとされる。

甘く切ない第2楽章

重厚的な第1楽章とは対照的に、第2楽章では甘く切ないメランコリックな世界が広がる。フルートとクラリネットがピアノソロと穏やかに調和し、聴く者を幻想の泉の奥底へと静かに引き込んでいく。

【試聴】ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番 第2楽章

アメリカでポップス・カバーされた第2楽章

アメリカのエリック・カルメン(Eric Carmen/1949-)が第2楽章をカバー・アレンジした1975年の『All By Myself(オール・バイ・マイセルフ)』は全米2位を記録する大ヒットとなった。

1996年にはセリーヌ・ディオンが同曲をさらにカバーし、アメリカのビルボード(U.S. Billboard Hot 100)で4位を記録している。

第3楽章 壮大なロシア的叙情の世界

第3楽章では壮大なロシア的叙情の世界が繰り広げられる。そしてフィナーレへ向けてダイナミックで力強い終結部、いわゆる「ラフマニノフ終止」が展開され、華々しくピリオドが打たれるのである。

【試聴】ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番 第3楽章

伊藤みどりが第3楽章で銀メダル

第3楽章のメロディーは映画音楽として用いられた他、1992年アルベールビルオリンピック銀メダリストの伊藤みどりが、同大会のフリースケーティング(LP)で後半部分に使用している。

体力が落ちて難易度が上がる演技の後半(3分過ぎ)にトリプルアクセルを決めた伝説の演技は、この第3楽章のフィナーレと大きな感動と共に堂々たるフィニッシュで締めくくられた。

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