グリーングリーン 歌詞の意味・和訳

ある日パパと二人で語り合ったさ 原曲はパパではなくママ?

『グリーングリーン』(Green, Green)は、アメリカのフォークグループ、ニュー・クリスティ・ミンストレルズ(The New Christy Minstrels)による1963年6月リリースのヒット曲。『グリーン・グリーン』とも表記される。

「ある日パパと二人で語り合ったさ」の歌い出しで知られる日本語カバーが有名で、1967年4月にNHK「みんなのうた」で初回放送された。

この日本語歌詞は訳詞ではなく完全オリジナルで、原曲の『Green, Green』にはパパではなくママが登場する。

このページでは、英語の原曲『Green, Green』の歌詞の意味・和訳と、その日本語版として放送された『グリーングリーン』の歌詞の比較、そして日本語版の歌詞にまつわる都市伝説について、簡単にまとめてみた。

【YouTube】 Green Green - The New Christy Minstrels (1963)

【YouTube】 Green Green - The New Christy Minstrels (1963)

歌詞の意味・和訳(意訳)

『Green, Green』

作詞・作曲: Barry McGuire, Randy Sparks

CHORUS:
Green, green, it's green they say
On the far side of the hill
Green, green, I'm goin' away
To where the grass is greener still

<コーラス>
グリーン グリーン
丘のむこうのずっと遠く
そこは緑あふれる土地
グリーングリーン
俺は旅立つよ
緑かがやく希望の地へ

a-Well I told my mama
on the day I was born
"Dontcha cry when you see I'm gone"
"Ya know there ain't no woman
gonna settle me down"
"I just gotta be travelin' on"
a-Singin'

生まれたその日にママに言ったのさ
俺が出てっても泣かないでおくれ
女のために落ち着く気はないのさ
俺はただ彷徨い続ける 歌いながら

Nah, there ain't nobody
in this whole wide world
Gonna tell me to spend my time
I'm just a good-lovin' ramblin' man
Say, buddy, can ya spare me a dime?
Hear me cryin', it's a

この広い世界に誰もいやしない
好きなように生きろと
言ってくれる奴なんて
俺は愛に満ちた放浪者
なあ相棒、小銭を貸してくれないか?
涙が出てくるよ

Yeah, I don't care
when the sun goes down
Where I lay my weary head
Green, green valley or rocky road
It's there I'm gonna make my bed
Easy, now

そうさ いつ日が暮れてもお構いなしさ
どこだって疲れた頭を横に出来る

緑あふれる希望の地よ
谷間にあるのかでこぼこ道か

そこへこれから辿り付くのさ
気楽に行こうぜ!

ヒッピー文化の影響?

原曲がリリースされた1960年代のアメリカは、ヒッピーやロック、反戦運動、公民権運動、農業回帰運動など、「カウンターカルチャー」と呼ばれる対抗文化が盛んだった時期。

『グリーングリーン』原曲の歌詞には、当時のヒッピー文化が目指していたところの「自然回帰」、「既存の社会への反発」、「既存の社会からの脱却」等の社会的メッセージが強く歌い込まれているように感じられる。

戦争や差別で汚れた世の中で、矛盾や疑問を感じながら自分を見失なってしまうよりも、全てを捨てて、自分らしい生き方・居場所を求めて放浪の旅を続けていく・・・。

つまり『グリーングリーン』とは、彼らが目指す希望の地であり、荒んだ世の中で失われた世界がいまだ残る、丘の向こうにある緑の新天地だったのではないだろうか。

日本語歌詞と比較してみると…

日本語版『グリーングリーン』の歌詞は、原曲の英語の歌詞とどのような内容の違いがあるのだろうか?

【YouTube】 日本語版『グリーングリーン』

片岡輝の作詞による『グリーングリーン』の歌詞を次のとおり引用して確認してみたい。

1.
ある日 パパとふたりで
語り合ったさ
この世に生きるよろこび
そして 悲しみのことを

グリーン グリーン
青空には ことりがうたい
グリーングリーン
丘の上には ララ 緑がもえる

2.
その時 パパがいったさ
ぼくを胸に抱き
つらく悲しい時にも
ラララ 泣くんじゃないと

グリーン グリーン
青空には そよ風ふいて
グリーン グリーン
丘の上には ララ 緑がゆれる

3.
ある朝 ぼくは目覚めて
そして知ったさ
この世につらい
悲しいことがあるってことを

グリーン グリーン
青空には 雲がはしり
グリーン グリーン
丘の上には ララ 緑がさわぐ

4.
あの時パパと
約束したことを守った
こぶしをかため
胸をはり ラララ ぼくは立ってた

グリーン グリーン
まぶたには 涙あふれ
グリーン グリーン
丘の上には ララ 緑もぬれる

5.
その朝 パパは出かけた
遠い旅路へ
二度と帰ってこないと
ラララ ぼくにもわかった

グリーン グリーン
青空には 虹がかかり
グリーン グリーン
丘の上には ララ 緑がはえる

6.
やがて月日が過ぎゆき
ぼくは知るだろう
パパの言ってたことばの
ラララ ほんとの意味を

グリーン グリーン
青空には 太陽笑い
グリーン グリーン
丘の上には ララ 緑があざやか

7.
いつかぼくも子どもと
語りあうだろう
この世に生きるよろこび
そして 悲しみのことを

グリーン グリーン
青空には かすみたなびき
グリーン グリーン
丘の上には ララ
緑がひろがる

グリーン グリーン
青空には かすみたなびき
グリーン グリーン
丘の上には ララ
緑がひろがる
緑がひろがる

この日本語歌詞を見る限り、原曲の英語の歌詞とは全く異なる独自のストーリーが展開されていることが分かるだろう。

原曲の歌詞では「ママ」が登場するが、日本語版では「パパ」に変更されているのがとても興味深い。

日本語版の作詞者について

日本語版で「ママ」を「パパ」に変えてしまったのは、『勇気ひとつを友にして』で知られる作詞者の片岡 輝(かたおか ひかる)。

片岡氏は1933年中国大連生まれ。少年期を北京で過ごした。慶応義塾大学卒業後、TBSに入社。各番組のディレクター及びプロデューサーを経て、1963年よりフリーとなった。

その後は、NHK関係の企画・演出、作詞・訳詞等に携わり、現在東京家政大学家政学部の教授を務めている。

「ママ」を「パパ」に変えた理由とは?

原曲の「ママ」が、日本語版で「パパ」になってしまった理由については、(株)教育芸術社の公式サイトで、片岡氏本人へのインタビューが掲載されていた。この貴重なインタビューの一部を引用してみたい。

「・・・そのときふと,日本の歌の中には,親子の心を通わせるような,特にお父さんをテーマにした曲はあまりないなあと思ったんですよ・・・」

「・・・全く私の作詞でして,訳詞ではないんです。・・・」

このインタビューによれば、片岡氏はとにかくパパが登場する親子の歌が作りたかったということだ。そこへ「ママ」が登場するアメリカのヒット曲『Green Green』が片岡氏の耳に入り、ある種のインスピレーションが起きたというわけだ。

パパは何処へ旅立って行ったのか?

日本語版の歌詞をよく見ると、「ある日パパは出かけた遠い旅路へ」「二度と帰ってこないと僕にも分かった」など、解釈の仕方によってはちょっと不気味に感じる部分がある。

パパは何処へ旅立って行ったのか?この点についてネットで調べると、パパは「病死した」、「南北戦争に出兵した」、「ベトナム戦争に出兵した」、「無実の罪で処刑された」などの「都市伝説」的解釈が存在するようだ。

どの解釈が一番近いかを考えるにあたり、日本語の歌詞を作詞した片岡氏の生い立ちが一つのヒントになるかもしれない。

幼少期を戦時の中国で過ごした片岡氏

作詞者の片岡氏は、1933年に中国の大連に生まれ、少年期を北京で過ごしている。1933年頃の中国といえば、満州事変(1931年)、盧溝橋事件(1937年)など、日中戦争真っ只中の時期だ。

戦場となった中国で幼少期を過ごした片岡氏にとって、成人後の創作活動において当時の記憶が作品中に表れている可能性がある。

日本語版『グリーングリーン』における「パパ」は、何らかの戦いに召集され、そして命を落とすかもしれない父親の姿であり、上述の都市伝説で言えば、パパは「戦争に出兵した」との解釈が最もしっくりくるように感じられる。

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