浦島太郎伝説が残る香川県三豊市の浦島太郎像(出典:Wikipedia)
『浦島太郎(うらしまたろう)』は、1911年の「尋常小学唱歌」に掲載された文部省唱歌。
おとぎ話としての「浦島太郎」は、古くは『日本書紀』や『万葉集』にも記述が見られ、今日知られる形になったのは、打出の小槌で有名な一寸法師などが収められた室町時代の小説集『御伽草子(おとぎぞうし)』からとされている。
『御伽草子』での「浦島太郎」は、現在知られている一般的なストーリとは部分的に異なる展開が見られる。そのあらすじはこうだ(古文を大まかに現代語訳)。
むかしむかし、丹後の国(現在の京都府北部)に、浦島太郎という若い漁師がいた。ある日、「えじまが磯」で釣り糸にかかった亀を逃がしてやると、次の日一人の美しい乙女が小舟に乗って現れ、こう言った。
「船旅の途中で嵐に会い、多くの人が海へ投げ出される中、心ある人が私を小舟へ乗せてくれました。何処へ流れ着くのか不安で悲しみに暮れていましたが、こうして今貴方の所へ流れ着きました。貴方に見捨てられたら私もどうなってしまうか分かりません。どうか私を故郷へ帰してくださいませ…。」
乙女がしきりに涙を流して静かに泣く様を見て哀れに思った太郎は、同じ船に乗り込み、乙女を故郷へ送ってやることにした。
十日ほどで故郷の地へ辿り着いた。そこは銀の塀に金の屋根の世にも素晴らしい御殿で、言葉では言い表せない美しさを放っていた。御殿に見とれる太郎に乙女はこう言った。
「一本の木の陰に宿るのも、同じ河の水を汲むことも、すべて他生の縁(前世の縁)です。はるか遠い海路をはるばる送ってくださったことは、まさに他生の縁にございましょう。私と夫婦の契りを交わし、ここで一緒に暮らしてください。」
太郎はこれを受け入れ、天にあらば比翼の鳥、地にあらば連理の枝とならんと、二人は鴛鴦の契り(えんおうのちぎり)を交わしたのであった。
乙女が言うには、ここは竜宮城であるという。東西南北の扉に春夏秋冬の景色が広がる何とも不思議な場所だった。太郎は楽しく明け暮らし、あっという間に三年が経っていた。残してきた父母の事が気になった太郎は、乙女に三十日の暇を貰えるよう頼むと、乙女は悲しそうにこう言った。
「鴛鴦の衾(えんおうのふすま)の下に比翼の契りをなして三年、貴方の姿が少し見えない時でさえ、どうしたのかしら、何かあったのかしらと心を尽くしていたのに、今別れてしまったら、次はいつの世でお逢いできるのでしょうか。」
乙女はさめざめと泣いた。
「今となっては包み隠さずに申しましょう。実は私はこの龍宮城の亀でございます。えじまが磯であなたに命を救われた恩返しに、このように夫婦の契りを交わしました。これは私の形見と思ってください。」
乙女は左の脇から美しい箱を取り出すと、「決してこの箱を開けないでください」と太郎に渡した。会者定離の習いとて、出会いには必ず別れがあるとは知りながら、つらい別れであった。
乙女は別れの歌を詠んだ。
「日数経て 重ねし夜半の旅衣(よわのたびごろも) たち別れつつ いつかきて見ん」
太郎は返歌した。
「別れ行く 上の空なる唐衣(からころも) 契り深くは またもきて見ん」
互いに名残を惜しみつつ、太郎は故郷へと帰って行った。悲しみをこらえ、太郎は舟に揺られながら歌を詠んだ。
「かりそめに 契りし人のおもかげを 忘れもやらぬ 身をいかがせん」
故郷についた太郎は、荒れた様子と人気のなさに驚いて周囲を見渡した。小さな小屋にいた老人に聞くと、浦島という人が住んでいたのはもう七百年も前のことだという。太郎はこれまでの出来事を話すと、老人は驚き、涙を流してこう答えた。
「あれに見える古い塚が、その浦島という人の墓だと聞いています」
太郎は草深き茂みを分け入って古い塚に参り、涙を流した。松の木に寄りかかると、太郎は乙女の形見の箱に手をかけた。
「開けるなと言われたが、今となってはもう何でもこいだ。」
箱を開けると、中から紫の雲が三筋立ち昇り、太郎の姿は見る見ると変わり、一羽の鶴になって蓬莱山へと飛び立っていった。その箱には浦島の年が詰め込まれていたのだ。
亀を助けた優しい太郎は、その行く末もめでたきもの。その後丹後国で「浦島の明神」となり、亀と一緒に夫婦の明神として祭られることとなった。めでたしめでたし。
むかしむかし浦島は
助けた亀に連れられて
龍宮城へ来て見れば
絵にもかけない美しさ
乙姫様のごちそうに
鯛やひらめの舞踊り
ただ珍しく面白く
月日のたつのも夢のうち
遊びにあきて気がついて
おいとまごいも そこそこに
帰る途中の楽しみは
みやげにもらった玉手箱
帰って見れば こはいかに
元居た家も村も無く
みちに行きあう人々は
顔も知らない者ばかり
心細さに蓋取れば
あけて悔しき玉手箱
中からぱっと白けむり
たちまち太郎はおじいさん