ポーランド孤児を救った日本人

世界史・国際関係トピックス

第一次世界大戦が終結した1918年11月、ヴェルサイユ条約の民族自決の原則に基づき、ポーランドは共和政のポーランド共和国(第二)として悲願の独立を果たした。

当時のロシアは、1917年のロシア革命から続く内戦状態にあり、シベリアには、ポーランドで弾圧を受けた政治犯や愛国者らが15万人以上抑留されていた。

ポーランド人は極寒の地で過酷な労働を強いられ、栄養状態も悪く飢餓や疾病で次々と命を失い、数多くの孤児が生まれた。帰国のためのシベリア鉄道も利用できない状況下で、孤児たちは命の危機にさらされた。

大戦直後の混乱と政治的理由から欧米諸国は援助を拒絶。ポーランドの救済委員会は日本政府に救援を求めると、政府はすぐさま日本赤十字に指示を出し、日本軍の協力も得て、ポーランド孤児の受け入れ態勢を直ちに整えた。

日本の手厚い保護

1920年7月、ロシアのウラジオストクから第一陣が敦賀港に入港すると、以後1922年までに数回に分けて計765名に及ぶポーランド孤児たちが日本赤十字の厚い保護下に置かれた。

日本で保護されたばかりの孤児たちは、シベリアの過酷な状況でみな栄養失調に陥り、やせ細って顔色も青白く、様々な病気にかかって苦しんでいた。

来日当初の孤児たちはボロボロの衣服で、靴を履いている子供はほとんどいなかった。着ていた粗末な衣服は熱湯消毒され、真新しい浴衣が支給された。

ある孤児の回想によれば、浴衣の袖には大好きなアメやお菓子をたっぷり入れてもらい、とても感激したことをよく覚えているという。その後全員に新しい衣服と靴が支給された。

日本で保護されたポーランドの子供たち

日本での楽しい日々

日本の手厚い保護で急速に体力を回復したポーランド孤児たちは、読書や勉強をしたり、寄贈されたおもちゃで遊ぶなど、シベリア抑留時代とは考えられないほどの平穏な時間を日本で過ごした。

日本全国から多数の寄付・寄贈品が寄せられ、貞明皇后(ていめいこうごう)様からは御下賜金が届けられた。病院では万全の受け入れ態勢が整えられ、宿舎周辺には安全のために警官が配備されるなど、日本の多くの温かい善意がポーランドの子供たちへ集まっていた。

宿泊先では子供たちのための慰安会が開かれたり、動物園や博物館へ見学に訪れるなど、日本の手厚い保護の中で楽しい日々を過ごした。子供たちの表情には笑顔が戻り、身なりも整い、安心してポーランドへ帰国させられる準備が着々と整えられていった。

日本赤十字の看護婦とポーランドの子供たち

別れの朝

子供たちがポーランドへ帰国する日がやって来た。出港の間際、子供たちは船のデッキに並び、両国の国旗を手にしながら、涙ながらに『君が代』と『ポーランド国歌』を斉唱し、「アリガトウ」、「サヨウナラ」と叫んで別れを惜しんだ。

出港前には日本全国から集まった衣服やおもちゃの贈り物が積み込まれ、布地の帽子や聖母マリア像が描かれたお守り、そして航行中寒くないようにと毛糸のチョッキが全員に支給された。子供が好きなバナナやお菓子も持たせてもらった。

幼い子供の中には、親身になって世話をしてくれた日本の保母さんや看護婦さんたちとの別れを惜しみ、船に乗ることを泣いて嫌がった子らもいたという。

神戸港から乗船するポーランドの子供たち

子供たちは、大勢の人々に見送られながら、各国を経由して祖国ポーランドへの帰国の途についた。彼らを乗せた日本船の船長は、就寝時間になると毎晩ベッドを見て回り、一人ひとり毛布を掛け直しては、熱を出していないか頭を撫でて確かめていたという。「その手の温かさを忘れない」と、一人のポーランド孤児は後に回想している。

帰国後のエピソード

献身的な介護を続けた看護師

来日したばかりのポーランド孤児たちは、腸チフスや風邪、百日咳など様々な病気を罹患していた。日本赤十字社神奈川県支部に所属していた若い看護婦、松澤フミは、腸チフスに感染して重体となっていた子供を付きっきりで看病した。

「せめて最期は自分の胸の中で」と夜も子供を抱いて寝ていたため、彼女自身も腸チフスに感染し、そのまま亡くなってしまった。それも承知の上での看護だったのだろう。

驚くべきことに、彼女の献身的な看護の結果、重体の子供は奇跡的に一命を取り留めた。その後体力も回復し、無事にポーランドへ帰国したという。松澤フミはその功績が讃えられ、ポーランドから1921年に赤十字賞、1929年に名誉賞を授与されている。

日本赤十字の看護婦とポーランドの子供

阪神大震災の被災孤児をポーランドへ招待

1995年1月17日未明に発生した阪神・淡路大震災により、日本にも多くの震災孤児が生まれた。ポーランドでは、少しでも孤児たちの心が晴れればと、日本の孤児たち計60人をポーランドへ招待して彼らを手厚く歓待した。

1919年に日本で助けられたポーランドの子供たちは高齢者となっていたが、被災した日本の子供たちが来ていることを聞きつけると、老体をおしてポーランド各地から集まった。

彼らは日本の子供たちにバラの花を一輪ずつ手渡すと、通訳を通して、自分たちが過去に日本の人々からどんな恩を受けたのかを切々と伝え、共に親を失った孤児として、苦難を耐え抜き強く生きるよう日本の子供たちを激励したという。

皇后様に伝えた感謝の思い

2002年7月、天皇皇后両陛下によるポーランド公式訪問が初めて実現した。両陛下はワルシャワで無名戦士の墓に献花されたほか、ワジェンキ公園のショパン像の下でコンサートをお聴きになられた。

このご訪問の際、1919年にポーランド孤児として来日した子供のうち存命のお年寄りが3人、両陛下とのご対面の機会が得られた。

既に86歳となっていたアントニナ・リーロさんは、日本で助けられた際に、自分のいた病院へ貞明皇后(ていめいこうごう)様が直々にお見舞いに来られ、小さかった彼女を抱いて励ましてくださった経験があるという。

写真:関東大震災の被災者を慰問される貞明皇后様(1923年)

かすかな記憶に残る貞明皇后様の手の感触・ぬくもりを今も忘れておらず、80余年の時を経て再度日本の皇后様に面会できた喜びと、当時の日本で受けた恩へ感謝の念で、アントニナ・リーロさんは美智子皇后の手をずっと握って離そうとしなかったという。

東北大震災 被災地の子供たちがポーランドへ

2011年3月11日に発生した東北大震災。ポーランド伝統空手道協会の主催により、被災した岩手県および宮城県の中高生30名が、2011年7月24日から2週間、ポーランドで夏休みを過ごす「絆の架け橋」プロジェクトに参加した。

滞在中は、遠足やサイクリング、カヤックなどのスポーツ交流や、ポーランド語レッスン、ワルシャワへの観光、大統領宮殿への訪問など、様々な文化交流イベントが行われた。

日本とポーランド両国の絆は今日も続いており、何十年の時を経てもなお色褪せることなく、その結びつきを更に強め、今後もより確かなものになっていくことだろう。

ポーランド国民の感激、我らは日本の恩を忘れない

遠く離れた日本とポーランドとの間で築かれた善意の架け橋。日本によるシベリア孤児救済の事実はポーランド国内に広く知れ渡り、日本へ数多くの感謝状が関係者や政府・団体から届けられた。

日赤を訪れた極東青年会 元会長ストシャウコフスキ氏(元シベリア孤児)

シベリア孤児の組織である極東青年会の副会長(当時)ヤクブケヴィッチ氏も日本へ感謝状を送っており、「ポーランド国民の感激、我らは日本の恩を忘れない」と題した礼状の中で、ヤクブケヴィッチ氏は次のように述べている。

「日本人は我がポーランドとは全く縁故の遠い異人種である。日本は我がポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。しかも、我が不運なるポーランドの児童に斯くも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてくれた以上、我々はその恩を忘れることはない。」

「我々の子供たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自分の着ていた最も綺麗な衣服を脱いで与えようとしたり、髪に結ったリボン、櫛、さては指輪までもポーランドの子供たちに与えようとした。こんなことは一度や二度ではなかった、しばしばあった。」

「ポーランド国民もまた高尚な国民であり、我々はいつまでも恩を忘れない国民であることを日本人に告げたい。日本人がポーランドの児童の為に尽くしてくれたことは、ポーランドはもとより米国でも広く知られている。」

「ここにポーランド国民すべては日本に対して、最も深い尊敬、最も深い感銘、最も深い恩、最も温かい友情を持っていることをお伝えしたい」

【参考文献】

「善意の架け橋」 兵藤長雄/文藝春秋
「日本のみなさん やさしさをありがとう」 手島悠介/講談社
「世界が愛した日本」 四条たか子/竹書房

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