トップ > ドナドナ研究室 > アメージンググレース 前編 11-9

嵐に巻き込まれるグレイハウンド号

 イギリスに向けて出発してから2ヶ月が経過していた3月の初め頃、グレイハウンド号の海路上を激しい西風が猛威を振るい始めていました。ある晩、ジョンニュートンは突然の激しい揺れと船室へ流れ込んでくる海水に驚いて目を覚まします。

 「船が沈む!」

 誰かが叫びました。甲板では船員が激しい波にさらわれ海へと投げ出されていきます。船体は激しく損傷し強風に舵はきかず、船員が出来ることと言えば必死になって海水を外に汲み出すことぐらいでした。水を汲み出せど汲み出せど激しい波を受けて破損した船体から次々と流れ込んで来る海水。もう沈没は時間の問題かと思われた状況の中で彼らにとって運が良かったのは、積んでいた大量の蜜蝋や木材が水より軽く、それらが何とか壊れかけた船を浮かせるに足りる浮力を持っていたことでした。

 強風がおさまって来たのは明け方の頃でした。しかし波はまだ依然として荒く、船員達は海に投げ出されないように自分の体をロープでしばりつけ、昼頃になってもまだ海水を必死になってかき出し続けました。船員達は少しでも漏水を食い止めようとシーツや衣類をかき集め、破損した船体の隙間に詰め込み上から板を打ち付けていきます。何時間作業を続けても一向におさまらない漏水に、誰もが最悪の状況を予感しつつも、ずぶ濡れでクタクタの心と体に鞭打ちながら、船員達は休むことなく懸命に体を動かし続けていきました。

 ジョンは9時間以上の排水作業で疲れ切り、半ばあきらめたように横になり休んでいると、しばらくして船長から呼ばれて舵を任されます。彼は、荒れ狂う海原を前に舵輪を握りしめながら、ふとこれまでの22年間の自分の人生を思い起こしていました。母親の死、父親との航海、彼女との出会い、海軍への連行、脱走、黒人取引。母の教えを忘れ、父の期待を裏切り、 軍役から逃げ出し、そして神を愚弄しあざ笑っていた自分。沈み行かんとする船の上で我々が助かるとすればもはや神の奇跡以外にはありえない。しかし僕のように罪深き人間を神様はきっと許してくれないだろう。彼はそんな絶望的な思いを抱きつつも、最後まで諦めることなく一縷の望みにかけて舵を握り続けたのでした。

 どのくらいの時間が経っていたのでしょうか。船員総出の努力の甲斐があってか、気が付けば漏水はおさまり、船の揺れも幾分穏やかになっていました。沈没の危機をからくも脱したグレイハウンド号の甲板の上で、ジョンは自分が助かったことがまだ信じられず、ただ呆然と立ちつくしていました。

 もちろんまだ陸についたわけではなく、危険な状況であることには変わりはなかったものの、絶望的とも思えた危機的状況を乗り越えたジョンの目は、まばゆい光の中で自分に手を差し伸べる神の姿が確かに映っていました。「僕はまだ生きている。今まで数々の不徳を繰り返してきたこの僕が。これが神の所業というものか?神はこんな僕を助けてくれたというのか?」

 大きな危機を一つ乗り越えた彼らでしたが、もう一つの大きな問題の存在に気が付くのにそれほど時間はかかりませんでした。

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