その後のジョンニュートン~驚くべき神の恵み

 病気をきっかけに船を下りたジョンニュートンは、その後マネスティ氏の紹介を受けて、リバプールの潮流調査官を1755年から5年間務めました。その後ジョンは、福音伝道家で英国教会の執事であったジョージ・ホイットフィールド(George Whitefield/1714-1770)と出会い、彼の熱狂的な弟子となります。一方で、これまで独学で学んできたラテン語にくわえ、ギリシャ語やヘブライ語まで独学の幅を広げ、メソジスト派の創設者であるJohn Wesleyとも交流を深めていきました。

 その後聖職者としての道を歩むことを決意した彼は、ヨークの大司教に一旦は拒否されたものの、イングランド東部のリンカーンの司祭から聖職位を授かり、イングランド中南東部バッキンガムシア州のオルニー教会の牧師となることができました。

 そしてオルニーへ詩人ウィリアム・クーパー(William Cowper)が移り住みジョンと親友になると、彼はジョンと行動を共にし、毎週の礼拝のための賛美歌を共同で書き上げ、ジョン牧師が54歳の1779年に「オルニー賛美歌集」として発表しました。

 この「オルニー賛美歌集」に収められた一篇の詩にいつしかメロディーが付けられ、イギリスからアメリカへ広まり、「アメージンググレース」と名前を変えて、世紀を超えて世界中の人々から愛されることとなったのです。

 1780年にはオルニーを去り、ロンドンの聖メリーウールノース教会(St. Mary Woolnoth, London)の司祭となって晩年まで説教を続けました。彼が人々に与えた影響は計り知れない程大きく、その中には後にイギリスにおける奴隷制度廃止運動の指導者となるウィリアム・ウィルバーフォース(William Wilberforce)の名前もありました。

 82歳を迎えた1807年12月21日、ジョンニュートンは神の御許へ旅立っていきました。晩年、彼はこんなことを述べていたそうです。

"My memory is nearly gone, but I remember two things, that I am a great sinner, and that Christ is a great Saviour."

「薄れかける私の記憶の中で、二つだけ確かに覚えているものがある。
一つは、私がおろかな罪人であること。
もう一つは、キリストが偉大なる救い主であること。」

 

ドナドナ研究室No.011
「アメージンググレース 前編」


 

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