マゼラン航海士とフィリピン

世界史・国際関係トピックス

フィリピンスペインの関係は16世紀前半の大航海時代から始まる。スペイン王・カルロス1世の援助を得て、スペイン船5隻の艦隊を率いてセビリアを出発した航海士マゼラン(マジェラン)は、1521年3月16日にフィリピン諸島を発見した。

フィリピン最古の植民都市セブ(City of Cebu)

マレー人エンリケを通じて意思疎通に成功したマゼランは、さっそくセブ島でキリスト教(カトリック)の布教を開始。セブ王とも親しくなり、500人以上に洗礼を受けさせると、気をよくしたマゼランは強硬な態度で周辺の部族に改宗と服従を要求するようになった。

ラプ=ラプ王との戦闘でマゼラン戦死

武力を用いはじめたマゼランによる布教活動により、セブ島の対岸マクタン島では町が焼かれ、現地部族の反感が高まった。

マクタン島の領主ラプ=ラプ(Lapu-Lapu)が服従を拒否すると、激怒したマゼランはラプ=ラプを討つべく、50人ほどの兵を率いてマクタン島へ上陸した。

マゼランの動きを事前に察知していたラプ=ラプ王は、1500人の軍勢を率いて遠浅の海岸で待機。干潮で岸に近づけず艦砲射撃をあきらめたマゼラン隊は上陸して戦闘に突入した。

ラプ=ラプ兵の竹ヤリはマゼラン達の甲冑に通じず戦闘は長引いたが、防具のない足を狙われて徐々に数を減らしていくと、ついにマゼラン隊は数で上回るラプ=ラプ兵の猛攻の前に全滅を喫した。1521年4月27日、マゼランは遠い異国の地で名誉の戦死を遂げた。

ラプ=ラプ王(上写真の銅像)は、ヨーロッパ人のアジア侵略に対して立ち上がった最初の東南アジア人であるとされ、現代に至るまでフィリピンの英雄として讃えられている。

なおその後、マゼランの部下がビクトリア号1隻で航海を続け、1522年に出港地セビリャ(スペイン)に帰港。世界初の世界一周を達成し、地球が球体であることが実証された。

初の世界一周を果たしスペインに帰港したビクトリア号(復元)

フェリペ2世にちなんだ「フェリペナス諸島」

スペインは1529年にフィリピンの領有をポルトガルに認めさせると、1543年にはスペイン王フェリペ2世(右挿絵/当時は皇太子)にちなみ「フェリペナス諸島 Las Islas Felipinas」と命名した。これがフィリピン国名の由来となっている。

当時、メキシコ(アステカ帝国)はスペインによって征服され、スペイン帝国の副王領地「ヌエバ・エスパーニャ Virreinato de Nueva España」の首都となっていた。1565年には、スペインの遠征隊がメキシコからセブ島に到着し占領。フィリピンはヌエバ・エスパーニャの植民地としてスペイン王領に組み込まれていった。

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