フィリピン独立革命 独立の父リサール

世界史・国際関係トピックス

300年以上スペインの支配を受けていたフィリピンで独立運動が起きたのは19世紀末。

当初は出版物を通じた極めて穏健な啓蒙的改革・プロパガンダ運動が中心であり、後に「フィリピン独立の父」を讃えられるホセ・リサール(右挿絵)自身もスペインからの独立は否定していた。

しかしスペインはこうした啓蒙活動すら許さず、リサールが逮捕され1892年7月に流刑となると、それまで穏やかであったフィリピン独立運動に火が付いた。

秘密結社が組織され、アンドレス・ボニファシオやたエミリオ・アギナルドらによる武装蜂起が各地で巻き起こった。

事態を重く見たスペイン当局は1896年12月、流刑地からリサールをマニラに召喚すると、一連の反乱を扇動した容疑を着せてリサールを処刑。スペインにとって皮肉なことに、このリサールの死はフィリピン国民に大きな衝撃を与え、独立派の反発を一層かき立てる結果となった。

アメリカの支援で独立宣言へ

リサールの死後、いったんはスペイン植民地軍に鎮圧された独立運動は、1898年4月にスペイン・アメリカ間で勃発した米西戦争により大きく動き出した。

香港に亡命していたアギナルド将軍ら指導部は、米軍を後盾にフィリピンへの帰還を果たすと、1898年6月12日に独立宣言を発布。アギナルドは臨時政府の大統領に就任した。

後にアメリカ軍に占領されてしまう運命ではあるが、スペインからの独立を宣言するまでに至ったフィリピンの対スペイン独立運動は、1899年1月のフィリピン共和国(第一次)建国をもって一応の区切りを迎えた。

フィリピン独立の父リサールが処刑されたマニラ湾を見渡す地には、現在リサール公園(Rizal Park)として整備されており、高さ12.7mのモニュメント「Rizal Monument」が1913年に建立された。

リサールは亡命中の1888年に来日しており、1ヶ月ほど東京都内に滞在している。当時リサールが宿泊していたホテルの跡地は日比谷公園となっており、同公園内にはリサール来日を記念した銅像が建立されている。

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