イツハク・カツェネルソンとは?

『ドナドナ』作詞者として言及されるユダヤ系の詩人・作家

イツハク・カツェネルソン(Itskhak Katsenelson/1886–1944)は、ベラルーシ生まれ、ユダヤ系の詩人・戯曲作家・教育者。『ドナドナ』作詞者(の可能性がある人物)として言及されることがある。

カツェネルソンの家族は、ポーランドの工業都市ウーチ(ウッチ/ウージ/ウッジ)に移り住み、そこで彼は働きながら詩人・執筆家としての活動を続けた。

写真は、イツハク・カツェネルソンが暮らしたウーチの街並み。ウーチは、世界的ピアニストでユダヤ人のルービンシュタイン(Arthur Rubinstein/1887-1982)の出生地としても知られている。

イツハク・カツェネルソンは執筆家としてエッセイや批評などを手掛けながら、20代半ばの1910年には、ヘブライ語で書かれたカツェネルソン最初の詩集「薄明」を出版。

1912年には、ウーチでヘブライ語の劇団を創設し、戯曲『真実の人生』など大衆向けの作品をいくつか生み出していった。

また、同時期には詩人としての活動の傍ら、ウーチにヘブライ語の私立学校を設立し運営に携わるなど、20代半ばのイツハク・カツェネルソンは活動的で活力に満ち溢れていた。

1926年には秘書と結婚。劇団や私立学校の運営にあたりながら、新たな詩集を出版するなど、順風満帆の人生を送っていたイツハク・カツェネルソンだったが、歴史の大きなうねりの前には成功者の彼も成す術がなかった。

ドイツ軍によるポーランド占領

1939年9月1日、150万人のドイツ軍がポーランドへ侵攻し第2次世界大戦が勃発。イツハク・カツェネルソンが数十年間暮らしたウーチはまもなく陥落し、彼ら家族はワルシャワに逃れた。

まもなく、ワルシャワのユダヤ人居住地区「ワルシャワ・ゲットー」が完成。イツハク・カツェネルソンらを含むユダヤ人たちは、疫病と飢餓の蔓延する劣悪な環境で過酷な日々を過ごすことになる。

1943年頃のワルシャワのユダヤ人とドイツ軍

1943年4月19日、ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人レジスタンスたちはドイツ軍に対し蜂起した(いわゆるワルシャワ・ゲットー蜂起)。

イツハク・カツェネルソンもこの蜂起に加わり、「われわれは戦わなければならない…たとえ戦いの中で破滅していくとしても…」と短い演説を行ったという。

蜂起より半年以上前の1942年8月14日、カツェネルソンの妻と息子のうち二人が収容所へ送られていた。

カツェネルソンと長男は周囲の助けでしばらく逃げ延びていたが、やがて捜査の網にかかり、1943年5月22日、ヴィッテル(フランス)の特別な収容所へ移送された。

滅ぼされたユダヤの民の歌

カツェネルソンはこのフランスの地で、周囲の目を盗み、イディッシュ語の詩稿「滅ぼされたユダヤの民の歌」を書き上げ、瓶に詰めて地中へ埋めて隠した。

1944年5月1日、カツェネルソンと長男はアウシュビッツで命を落としたが、翌年にドイツ軍が引き上げたのちにカツェネルソンの詩は支援者らによって発掘され、1945年末に印刷に付された。

現在、「滅ぼされたユダヤの民の歌」は翻訳され書籍化されており、大阪府立大学の細見和之氏らにより翻訳されたカツェネルソンの日本語版の詩を読むことができる。

ドナドナとの関係は?

1996年に出版された細見和之著「アドルノ 非同一性の哲学」(講談社)では、『ドナドナ』原曲の歌詞の作詞者について、興味深い事実が紹介されている。

同著では、ドイツのフォークグループ「ツプフガイゲンハンゼル(Zupfgeigenhansel)」のレコード「イディッシュ歌集(Jiddische Lieder)」が紹介され、そこに付されていた説明書き(ライナーノーツ)の記述が引用されている。

このレコードの説明書きによれば、『ドナドナ』作詞者はイツハク・カツェネルソン(Itskhak Katsenelson/1886–1944)であり、メロディは「トラディショナル(民謡)」と解説されているそうだ。

細見氏は、この解説が幾分不正確であることを十分承知で、しかも『ドナドナ』原曲が1940年のミュージカルで使われた曲であることも正確に把握した上で、このレコードの説明書きを取り上げている。今後の研究の進展を期待したい。

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