日本とタイ 戦中・戦後の歴史

棄権票を投じた唯一の国、タイ王国

1933年2月24日、満州事変に対するリットン調査団(The Lytton Commission)の報告書について、国際連盟総会で同意確認が行われた。

リットン報告書の内容は日本側にも一定の理解を示したものであったが、日本が絶対に譲れない「満洲国の承認」は得られなかった。

国際連盟総会の投票結果は、賛成42票、反対1票、棄権1票、投票不参加1国(チリ)であった。反対票を投じたのは日本、そして棄権票を投じた唯一の国が、他ならぬタイ王国(当時はシャム王国)だった。

当時のタイ周辺は西欧植民地

20世紀前半のインドシナ半島では、タイ王国の東側に位置する現在のベトナム・ラオス・カンボジアはフランスの植民地(仏印/フランス領インドシナ)となっていた。

タイの西側にあるミャンマー(ビルマ)、バングラデシュ、インドはイギリス領、南側のマレーシアもイギリスの保護国、インドネシアはオランダの植民地であった。

周辺国がすべてイギリスフランスオランダの植民地となる中、英仏の緩衝地帯として東南アジアで唯一独立を保ち続けたタイ王国にとって、同じくアジアで独立した君主制国家である日本と共闘の道を選ぶことは至極自然な選択肢の一つだった。

日本の介入でフランスから領土回復

当時タイは1893年に起きたフランスとの戦争により、現在のラオスの主権を失い、カンボジア王国のバッタンバン・シエムリアプ両州などの領土を奪われていた。

その頃中国と交戦中だった日本は、中国(蒋介石政権)を裏から支援していた英米の軍事援助ルート「援蒋ルート」を遮断するため、1940年9月、日本軍はフランス領インドシナ北部へ進駐を開始した(北部仏印進駐)。

友好国日本の上陸に鼓舞されたタイ軍事政権は、フランスに対し旧タイ領土の返還を要求。フランスはこれを拒否したため、1940年11月、タイ・仏印間で紛争が勃発した。

序盤はタイ軍優勢だったが、フランスの救援部隊に押されて不利な展開となると、それまで静観していた日本が仏印に軍事的圧力を加え和平を斡旋。1941年5月8日、両国は日本の仲介により東京条約を調印し、終戦となった。

同条約では、タイ側の領土要求が全面的に受諾された。この勝利を記念し、そして命を落とした兵士たちの霊を弔うため、バンコクには戦勝記念塔(アヌサーワリーチャイ)が建立されている(右写真)。

なお、この時回復した領土は、終戦後に敗戦処理としてフランスへ返還を強いられている。

イギリスがタイへ侵攻

日本の協力によって領土回復を成し遂げたタイは一層日本との関係を深め、1941年12月21日には日泰攻守同盟条約を締結し、日本の同盟国となった。

同時期、フランス弱体化を機にタイへの侵攻を始めていたイギリスは、1942年1月8日、ついにタイの首都バンコクへの爆撃を開始した。

1942年1月25日、タイのピブーンソンクラーム元帥は、それまでの中立政策を完全に翻し、イギリスとアメリカに宣戦布告。タイは枢軸国となり、日本と共に西欧列強に対する太平洋戦争に参戦することとなった。

終戦後のタイと日本

戦中からタイ国内の親イギリス勢力による活動を黙認し、連合国側とも一定の関係を保ち続けた二重外交により、タイは戦後の敗戦国処理を免れた。

冷戦期は、フランスから独立して共産主義化したベトナム、ラオス、カンボジアなどの脅威にさらされながらも、アメリカの支援の下「共産主義の防波堤」として発展を続け、アジア諸国連合(ASEAN)、アジア太平洋経済協力(APEC)の結成メンバーとしてその存在感を増していった。

日本企業も多数進出

タイは海外資本の積極的な受け入れにより、1980年代に本格的な工業化と高度経済成長を成し遂げた。特に日本はタイ最大の貿易相手国となり、トヨタ、ニッサン、ホンダ、スズキなどの自動車関連企業がタイに工場を進出している。

2011年10月の洪水災害時には工業団地が冠水し、自動車部品やHDD(ハードディスク)、カメラなどの電子機器の流通量に大きな影響が出たのは記憶に新しいが、それだけ日本とタイの経済的関係は緊密なものとなっている。洪水後も日本からの直接投資額は増加しているという。

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