アストル・ピアソラ Astor Piazzolla

タンゴとクラシック・ジャズを融合させたヌエーボ・タンゴの先駆者

アストル・ピアソラ・ライブ・イン・トーキョー1982

アストル・ピアソラ(Astor Piazzolla/1921-1992)は、アルゼンチンの作曲家、バンドネオン演奏家。

タンゴを元にクラシック、ジャズの要素を融合させた独自の演奏形態を産み出した。彼の創造したジャンルは「Nuevo tango(ヌエーヴォ・タンゴ/ヌエーボ・タンゴ/新タンゴ)」と呼ばれる。

元来タンゴは踊りのための伴奏音楽であり、強いリズム性とセンチメンタルなメロディをもつ展開の分かりやすい楽曲であった。

ピアソラは、そこにバロックやフーガといったクラシックの構造や、ニューヨークジャズのエッセンスを取り入れることで、強いビートと重厚な音楽構造の上にセンチメンタルなメロディを自由に展開させた。

イタリア移民三世の子として誕生

1921年、ピアソラは、アルゼンチンのマル・デル・プラタにイタリア移民三世の子として生まれる。四歳の時に一家でニューヨークに移住し、15歳までを過ごした。

この頃既にジャズに親しんでいたが、当初はバンドネオンやタンゴへの興味は薄かったという。1931年にブロードウェイのラジオ局でバンドネオンのフォルクローレを録音し、以降ステージやラジオなどの演奏を行うようになる。

1939年に当時最先端だったトロイロ楽団に参加し、バンドネオン奏者として徐々に頭角を表すようになる。

タンゴの限界を感じて渡仏

1954年、タンゴに限界を感じたピアソラは、クラシックの作曲家を目指して渡仏し、パリでナディア・ブーランジェに師事する。

当初自分のタンゴ奏者の経歴を隠していたが、ナディアにタンゴこそがピアソラ音楽の原点であることを指摘され、タンゴ革命の可能性に目覚めていく。

新天地ニューヨークへ

タンゴ:ゼロ・アワー アストル・ピアソラ

1955年7月に帰国後、エレキギターを取り入れたブエノスアイレス八重奏団を結成。すると、前衛的な作風に保守的なタンゴファンから猛攻撃を受け「タンゴの破壊者」と罵られた。命を狙われたこともあったという。

帰国当初は楽団としては成功せず、いくつかのアルバム録音を残した後、新天地を求めて家族で古巣のニューヨークに移住する。ニューヨークでは歌手の伴奏などを行ったほか、実験的なジャズ・タンゴと称する編成を組んだ。

定番の五重奏スタイルを確立

1960年に帰国すると、バンドネオン、ヴァイオリン、ピアノ、コントラバス、エレキギターからなる五重奏団を結成。このスタイルは、以後ピアソラの標準的グループ構成となった。

以後、数多くの楽団の結成・解体をくり返しながらも、ピアソラは数々の傑作を生み出していった。1990年、パリの自宅で脳溢血により倒れ、闘病生活に入る。1992年ブエノスアイレスの病院にて死去。享年71。

踊れないタンゴ?~20年先を行くタンゴ革命~

ピアソラの生み出した新しいタンゴは、完全にタンゴの表現を逸脱しており、「踊れないタンゴ」として当初の評判は芳しいものではなかった。

一方で、ピアソラの音楽はニューヨークなどのあまりタンゴと関わりを持たない街で評価された。現在では、タンゴの可能性をローカルな音楽から押し広げた功績は、アルゼンチンのみならず国際的に高く評価されている。

ピアソラの音楽は、共演者から「二十年先行していた」と評価されるほど、時代の先見性に富んだパイオニア的存在だった。しかしピアソラ一代で完全に閉じているために、「タンゴ全体の未来はピアソラの先にない」という見方もあるようだ。

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