パリ6月暴動とラマルク将軍
ミュージカル映画「レ・ミゼラブル」

ナポレオン戦争で活躍したフランス軍の指揮官

ミュージカル映画「レ・ミゼラブル」では、1832年のパリで発生した6月暴動の様子が後半のクライマックスとして描かれ、マリウス(マリユス)やアンジョルラスらがバリケードを築き、政府軍と戦闘を繰り広げる。

「レ・ミゼラブル」原作者であるフランスの作家ヴィクトール・ユーゴー(Victor-Marie Hugo/1802-1885)は6月暴動の当時パリで生活しており、6月5日の当日は公園で制作中の小説を執筆していたところ、近くで暴動が始まり、ユーゴーは公園を追い出されてしまったという。

上の写真は、2012年公開の映画「レ・ミゼラブル」において、ラマルク将軍の葬列シーンでロケ地に使われたイギリス(ロンドン)の旧王立海軍大学跡。一帯は世界遺産として登録されており、現在ではグリニッジ大学の施設として使われている。

このシーンでは、政府軍のドラムの音に合わせてマリウス(マリユス)やアンジョルラスらが劇中歌『民衆の歌 Do You Hear the People Sing?』を合唱する。ロケ地の詳細については、こちらのページ「グリニッジ大学と映画レ・ミゼラブル」を適宜参照されたい。

民衆の人気を得たラマルク将軍

ラマルク将軍(Jean Maximilien Lamarque/1770?1832) は、ナポレオン戦争で活躍したフランス軍の指揮官。1814年以降の王政復古時代には、復活したアンシャン・レジーム(Ancien regime)に批判的な立場を取った。

1830年の7月革命以降は、ブルジョワ擁護のルイ=フィリップ1世に対し、ラマルク将軍は弱い立場の労働者・農民の人権や政治的自由を重んじ、パリ民衆の人気を集めた。1832年6月1日、当時流行していたコレラにかかり病没。享年61歳。

富裕層を優遇する新政府に対し、「レ・ミゼラブル」のストーリーでは、共和派のマリウス(マリユス)やアンジョルラスらが、民衆に人気のあったラマルク将軍の葬儀を絶好の機会と捉え、大衆の注目が集まる葬列へ飛び込んで人々に決起を訴えた。

史実におけるパリ6月暴動

1832年6月5日、パリで行われたラマルク将軍の葬列の後を大群衆が続いた。しばらく民衆の行進が続いたその時、「ルイ=フィリップ1世を倒せ!共和国万歳!」と叫び声が上がると、学生らの一団がラマルク将軍の棺を運ぶ馬車を奪った。

馬車はかつてフランス革命(1789年)の発端となったバスティーユ牢獄跡であるバスティーユ広場へ向け進路を変えられた。そして群衆から「自由か死か」と書かれた旗が掲げられると、政府軍と共和派の民衆との交戦が開始された。

写真:今日のバスティーユ広場(Place de la Bastille)

弔辞を述べていたラファイエット

6月暴動の当日、セーヌ川に架かるオステルリッツ橋(Pont d'Austerlitz)の広場では、フランスの貴族・軍人ラファイエット(Lafayette/1757?1834)がラマルク将軍の葬儀に弔辞を述べていた。

アメリカ独立革命とフランス革命で活躍し「両大陸の英雄」と讃えられたラファイエットだが、勢いを増すパリ民衆の暴動の前にはその静止の声も届かず、そそくさと安全な場所へと退避してしまった。

失敗に終わった暴動

映画「レ・ミゼラブル」でも描かれたように、まだ道が入り組んでいた頃のパリにはあちこちにバリケードが築かれ、共和派の民衆による必死の抵抗が続けられた。

しかし、正規の政府軍の前には歯が立たず、パリ6月暴動は翌日の6月6日には鎮圧されてしまった。双方で800人近い死傷者が出たという。

そして1848年二月革命へ

共和派の運動が結実するのはそれから16年後の1848年2月22日、労働者・農民の諸権利を要求する政治集会が強制的に解散させられると、激高した民衆らは大規模なデモ・ストライキを展開した。

後に「フランス二月革命」と呼ばれる民衆らの大規模な運動の前に、翌23日には首相が退任。しかし事態は沈静化することなく24日には民衆運動は武装蜂起へと発展した。

国王ルイ・フィリップは退位しロンドンへ亡命。同日に臨時政府が発足し、その後3年ほど続く第二共和政が開始された。

なお、4か月後の1848年6月には、作業場の閉鎖に端を発した労働者らによる大規模な暴動が発生している。これは歴史上「六月蜂起」と呼ばれ、1,500人の犠牲者を出し、15,000人がアルジェリアへ追放された。

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