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| 自己破産マニュアル―借金完全整 |
スティーブン・フォスターの父ウィリアムは、1812年から始まった対英戦争で、アメリカ軍調達部隊次官(Deputy Commissioner of Purchases for the U. S. Army)に任命され、ニューオーリンズへの軍事物資の供給を担当することになった。
この任務において、父ウィリアムは一時的に多額の費用を政府の代わりに立て替えていたが、アメリカ政府は後に手のひらを返すように支払を拒絶。
この支払拒絶により、フォスター家の財政状態は大きな打撃を受け、父ウィリアムの人生の歯車は大きく狂いはじめていくことになる。
1815年頃になると、父ウィリアムはピッツバーグのとある商社(the Pittsburgh and Greenburgh Turnpike Company)の経営陣に加わった。今までの損失を挽回すべく、これから頑張っていこうと意気込んだのもつかの間、その会社が倒産。経営者の一人であったウィリアムは、会社残債務の支払責任を負うことになり、必死の努力空しく、ウィリアム家の財政状態は悪化の一途を辿っていった。
次々と父ウィリアムを不運な出来事が襲った1810年代。ビジネスは不調に終わったものの、1824年(45歳)にはペンシルベニア州議会の議員として当選するなど、父ウィリアムの名声や人脈はまだ衰えていなかったようだ。
しかし、その当選によってもフォスター家の財政状況が改善することはなかった。地元の名物だった「白壁(しらかべ)の家(the White Cottage)」も借金の担保にかけられ、結局支払うことができず、1826年に競売によって他人の手に渡ってしまった。
すぐには家を追い出されることはなかったようで、実際に家族が「白壁の家」を離れたのは、競売から数年後の1830年前後のことだったという。
スティーブン・フォスターが生まれたのはちょうどこの時期で、「白壁の家」でも数年間生活することができたようだ。フォスターが生まれた頃は、このように父ウィリアムの経済状態がやや下降局面に入っていたころで、貧しくはなかったにせよ、フォスター家にとって将来への暗雲が立ち込めていた非常に危うい時期であったと推測される。
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